万葉の昔から「神風の伊勢のくに」と歌によまれた伊勢は、長い歴史を「お伊勢さん」と共に歩んできた町である。地図で見る伊勢は、南西部には紀伊山地へとつづく山また山。東には波おだやかな伊勢湾。その間に広がる平野部を宮川、五十鈴川の清流が潤している。海・山・川の自然にめぐまれ気候も温和な伊勢は、太古の昔から「日本のふるさと」にふさわしい住み良い所であった。

歴代天皇の皇女が伊勢へ

その昔、都のある大和で天皇と同じご殿内にまつられていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、皇女・倭姫命に託されて鎮座の地を求めて諸国をめぐり、伊勢の地へ来られたという。その時、「神風(かみかぜ)の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり」といわれて、伊勢を永住の地に選ばれた。どちらを見ても山ばかりの大和とはちがって、海のかなたの理想郷・常世の国からつぎつぎと波も打寄せる美しい国、とほめ讃えられたのだ。

 大和朝廷は、東国へ勢力を延ばす海路の拠点として伊勢の地をことのほか重くみていたようだ。

 まず、五十鈴(いすず)川のほとり宇治の地に皇大神宮(こうたいじんぐう)「内宮(ないくう)」がまつられ、その500年後、山田の地に豊受大神宮(とようけだいじんぐう)「外宮(げくう)」がまつられた。それ以降、伊勢の町は、内宮の宇治の里と、外宮の山田の里という2つの町を中心に発達していくことになる。

 その頃の伊勢神宮は、国家の政治を祈る聖なる宮であったから、大神に幣(みてぐら)を供え祈ることができるのは、天皇唯お1人。私幣禁断とされ、たとえ身分の高い貴族であっても供え物をしたり私事を祈ることは許されなかった。

 歴代天皇は、未婚の皇女(または王女)の中から占いによって1人を選び、大神に仕える斎王(さいおう)として伊勢へ送った。斎王は天皇に代わって最も重要な神宮の祭、三節祭に奉仕されたのだ。この斎王制度は約660年間もつづき、74人の皇女(王女)が斎王に選ばれている。斎王のおられた伊勢の斎宮(さいくう)寮は、百棟をこえる大規模な官庁で、現在その国史跡(明和町)では発掘がすすみ、だんだんと謎が解き明かされている。

あふれる外来文化の中で式年遷宮

 ところで、天武天皇が定められた伊勢神宮の式年遷宮の制度は、次の持統天皇の4年(690)第1回が行われた。当時は、遺唐使がひんぱんに送られるなど、大陸の進んだ文化が怒濤のごとく流れ込んで大流行していた時代である。そのような時代に日本固有の伝統文化を伝える式年遷宮が定められたのはとても意義深い。20年ごとに建物も調度もそっくり同じ物を新調し大神にささげ、それによって後世に文化の原形を伝えるという文化継承の制度が設けられたのだ。

 当時は、斎宮寮とは別に大神宮司があり、祭主・宮司・禰宜(ねぎ)・内人(うちんど)・物忌(ものいみ)と呼ばれる神職が遷宮などの祭事にたずさわっていた。

 奈良から平安時代にかけて神領は神三郡とよばれる多気郡、度会(わたらい)郡、飯野(いいの)郡で、祭主は神領を治める上でも権限を強めていった。

 平安時代に流行した仏教の末法思想は、伊勢にも多くの証拠品を残している。神宮の鬼門を護る金剛証寺(こんごうしょうじ)の裏手を登ると、見晴らしのよい朝熊(あさま)山の経(きょう)ヶ峰に出る。ここの経塚(きょうづか)群は全国的にも知られるもので、経を入れた経筒がたくさん出土している。平安末期の日付がある経筒に神宮の世襲の筆頭禰宜であった荒木田氏、度会氏の名も見えて面白い。

清盛も伊勢へ、頼朝も奉幣

 外宮の境内に楠の巨大な古木があって、「清盛楠」とよばれている。平清盛が勅使として参向した折に冠に触れた枝を切らせたというエピソードが伝わっている。

 平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことになった源頼朝も、伊勢神宮には並々ならぬ崇敬心を抱いていた。養和2年(1182)願文を捧げ、神馬(しんめ)を10頭・金100両、神領などを奉納している。

 神宮は、この時代になると古来からの私幣禁断の建て前を変えざるをえなくなっていた。律令制度の崩壊とともに各地にある御薗(みその)、御厨(みくりや)を守るためににも地方の武士勢力の応援が必要になったのだ。

   何ごとのおわしますかはしらねども

         かたじけなさに涙こぼるる

西行法師がこの歌をよんだのはこの頃のことだ。

 文永11年(1274)、弘安4年(1281)と2度にわたり、わが国は蒙古襲来の脅威にさらされた。

 朝廷は、史上初の国難を打ち払うために伊勢神宮をはじめ各地の神社に奉幣して祈願を行った。

 戦いは、もともと海上戦に弱い蒙古軍に対し、御家人を中心とする武士たちが奮戦し、二度とも日本軍が勝った。しかも、二度ともその最中に大風が吹いて日本軍に幸いした。その時、神宮の風宮(かぜのみや)の神殿が鳴動し、西方に向かって大風が吹き起こった、というので当時の人々は「伊勢の神風」の威力に感嘆し、外敵に対しても神徳あらたかな伊勢神宮は一段と崇敬を高めた。

 鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府を開いた足利尊氏も、臣下を神宮に遣わし、神馬を奉っている。3代目義満は歴代将軍として初めて明徳4年(1393)に参宮し、その後10回も参宮している。

伊勢と各地をむすぶ御師(おんし)の活躍

 日本各地に伊勢信仰を広めたのは御師である。平安末期頃からの御祈とう師が室町時代に御師とよばれるようになり、神宮と信者の間をとりもって祈とうや奉幣をした。また、御厨や御薗についても権力者と神宮との仲介役であった。

 御師は全国をめぐって、神宮信者の檀家を次々と増やしていった。檀家を訪問する時は、大麻(おおぬさ)「神宮の御札」、伊勢暦のほか、伊勢みやげとして茶、のり、あわびなどの干貝、布、紙、帯などを配布し、檀家からは初穂料をもらった。これが御師の重要な収入源だった。

 こうして、「お伊勢さん」信仰は武士には戦勝の神として、農民には豊穣神として、商工人層には商売繁昌の守り神として広がっていった。

 これまで祭や遷宮の時のみであった参拝人も次第に増え、御師は、参宮客を泊める宿屋業も兼ねることとなった。

 村ぐるみ、町ぐるみで御師と結びつき、一方では、将軍家や大名など中央の有力者を檀家とする御師もあって、その羽振りのよさは大へんなものであった。

 御師は江戸末で山田に555家、宇治で309家に達している。

 しかし、明治維新の改革で師職制は廃止され、全国を網羅していた師檀関係は解体されてしまった。

門前町、宇治と山田

 山田と宇治の町は、鎌倉時代後期から庶民の参宮が増えるにつれて、神宮の門前町として発展した。

 地の利のよいのは山田の方で、その繁栄に憤懣やるかたない内宮・宇治との間に、さまざまな形で対立・紛争がおこった。明徳から慶長までのおよそ200年間に紛争は10数回に及び、一時期は国司北畠家も介入しての争いとなった。宇治と山田の合戦は天文10年(1541)以降、表に立つことはなくなったが、その後も対立感情は長く尾をひいた。

「おかげ参り」を暖かく迎える

 徳川幕府による天下統一で世の中が落ち着くと、全国的に街道が整えられ、一方、御師による精力的な地方の檀家まわりで、伊勢参宮はいよいよ盛んになった。

 時には、熱狂的に参宮が流行した年もあった。いわゆる「おかげ参り」で、宝永2年(1705)から享保、明和、文政とほぼ60年に一度起きている。宝永には約2ヶ月の間に362万人、文政には半年の間に約500万人というおびただしい人々が伊勢へ参宮した。江戸時代の日本の人口が約3千万人というからこれは大変な数字である。

 参宮者の中には、路銀もなく、親や主人に無断で仲間同士でやってくる者もあり「抜け参り」といわれた。伊勢音頭にもあるように「せめて一生に一度でも」という願望の表れであり、伊勢参りなら仕方がないという風潮もあって、ふつうなら旅などめっそうもない女中や丁稚奉公中の小僧までお伊勢参りをした。

 伊勢では、参宮の旅人たちに握り飯・赤飯・粥・餅・茶なかには金銭までも施行(せぎょう)したり、施行宿といって、無料の宿を用意して暖かくもてなした。

 一方、大勢の人々が来ることにより、伊勢の町が潤ったのはいうまでもない。

 勢田川沿いにある問屋街・河崎は、その大勢の参宮客をまかなう台所であった。水運を利用して大湊(おおみなと)港から荷を運び川から直接荷を蔵へ納めた。今も川沿いに建ち並ぶ河崎の蔵をみると、川の方へも出入口のあるのがわかる。

 さて、参宮を終えた人々の楽しみは、遊廓古市(ふるいち)での精進落しであった。これは旅人の懐具合にもよるわけだが、「伊勢参宮、大神宮へもちょっと寄り」と川柳にもある。道中日記に「古市の古き狐に騙されて、一度は来たが二度はこんこん・・・」という歌を残した者もいる。

自治を行う山田三方(さんぽう)と宇治会合(かいごう)

 全国的に太閤検地を行った豊臣秀吉は伊勢については宮川以東を神領として、自治の特権を認めた。徳川家康もその政策を引き継いだので、山田三方と宇治会合が町の自治に当たり、幕府直轄の山田奉行がそのお目付役となった。

 内宮前の宇治は、江戸時代にすでに名物餅の茶店や御師の館が並ぶ賑やかな門前町だったが、外宮前の山田は、経済力においてはるかに勝り、それ以上の活気があった。

 外宮前に三日市、五日市、八日市と市場が立つ一方、勢田川沿いは大湊、神社(かみやしろ)、河崎という水運による物資の集散地、宮川河畔には渡し場を中心とする集落が旅人を相手に商売に励んでいた。

 山田三方というのは、山田を三地域に分けて各三方から「年寄」を出して、会合をもって事を決めたことからその名がある。

 山田奉行は、両宮の警衛、公事の裁きを主な役目とし、江戸幕府から任命される。慶長8年から幕末まで200年の間に48代が赴任した。お裁きの名人として知られる大岡越前守(伊勢時代は能登守)は正徳2 年から享保元年まで5年間にわたり山田奉行を務め、紀州藩主(後の八代将軍吉宗)を相手に長年の神領との境界争いに決着をつけた、とのエピソードを残している。

伊勢志摩、国立公園に

 江戸時代には庶民の神さまであった伊勢神宮は、明治維新以後、政策によって国の宗教となり、国家体制に組み入れられた。

 御師の制度が廃止され、一部の旧御師は宿屋になり、毎年決まって御師によって配布されていた御祓大麻は神宮司庁から配布されるようになった。一方、学校教育の一環として修学旅行が行われるようになり、伊勢は神宮ゆえに目的地の第一にあげられ、全国から学生や生徒たちを迎えることとなった。

 交通機関もめざましく発達し、明治18年国道1号線は東京―伊勢間に設定、明治30年参宮鉄道が開通、昭和5年参宮急行電鉄(今の近鉄)が山田まで開通した。

 明治39年(1906)には宇治山田は市制を敷き、全国でも指折りの門前町、観光地として栄えることになる。山田駅前(現伊勢市駅)から外宮に至る大通りには、3階建、4階建の大旅館、みやげ物店、飲食店が軒を並べた。市内電車も、山田-内宮前-二見間に開通した。

 新しい交通機関の発達で、旧街道沿いの古市はさびれ、歓楽街の中心は山田の新町、新道に移り、海運の大湊、神社も衰退することになった。

 第2次世界大戦で、伊勢市は市街地の50%を焼失した。参宮客も戦前は800万人に近かったのが、敗戦の昭和20年には84万人にも落ち込んだ。新憲法のもとに、神宮は他の神社と同じく宗教法人になるという大変革があったが、全国の奉賛会の支援によって昭和28年、昭和48年、平成5年の遷宮を古式通りにやりとげた。

 明るい話題は、昭和21年、内宮、外宮が志摩と共に伊勢志摩国立公園に指定されたことだ。

 戦後の復興と共に参宮客もふえて、最近では毎年600万人を越える人々が伊勢市を訪れ、両宮を参拝し、お伊勢さんの町を楽しんでいる。




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 「日本」「日本人」「日本文化」を実感をもって知るために「歴史」を旅しよう・・・というのが「歴史街道」の旅だ。幸い近畿一円には、日本史の「現場」がごく近くに位置している。 そこでルートは、日本人の心のふるさとといわれる伊勢に始まり、古代から中世にかけての三都市飛鳥・奈良・京都をめぐり、秀吉以降の商人文化の中心地大阪、明治以降の国際交流を象徴する神戸へ至る。 伊勢を起点に日本の歴史を考える「歴史街道」の旅はこれまでの単なる史跡めぐりではなく、歴史を通して現代の日本と日本人を考える旅だ。

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